こんばんは。PHTのへおです。
今日はベトナムを南北に分けたターニングポイントについて書きたいと思います。
このターニングポイントが分かれば現在の南部と北部の温度差も頷けるはずです。
フランスは、実は第一次インドシナ戦争中の1948年6月、南部のコーチシナ共和国
を廃し1949年6月に旧阮朝のバオ・ダイを国家主席とするベトナム国(1949年~
1955年)を成立させていました。
そのため ジュネーブ協定では、北を支配するベトナム民主共和国と南を支配する
ベトナム国との間、北緯17度線に沿って幅10kmの非武装地帯(DMZ)を設ける
ことが決めらました。
あくまでも「暫定的な軍事境界線」とされ、1956年7月に自由選挙を実施して南北
統一国家を樹立することを定めていました。
しかし、協定を調印したのはフランスと北ベトナム(ベトナム民主共和国)のみ
で、アメリカと南ベトナム(ベトナム国)は調印を拒否します。
もし選挙をすればホー・チ・ミン主席が圧倒的な勝利をおさめるからと考えられて
いたからです。
そのため、 統一選挙が行われることはなく、北緯17度線は実質的な国境線となって
しまいました。
そして、北側にいたベトナム人も実は一枚岩ではありませんでした。
ジュネーブ休戦協定では、締結の日から1955年5月18日までの300日間、猶予期間
を設けてその間は南北ベトナムを自由に行き来できるようにし、その後境界線を
閉じることが合意されていました。
その間に南からは1 1 万 4000~14 万 5000 人の人々が北へ、 北からは60 万~
100 万人もの人々が南へそれぞれ移動した と言われています。
この移動がその後の運命を分ける大きなターニングポイントとなりました。
アメリカ海軍は「自由への道作戦 」を実施し約31万人を北から南へ移送しました。
そしてフランス軍もこれとは別に約51万人を移送しました。
ベトナムではこの移動を「1954年の移住」と呼ばれています。
この写真は、アメリカの自由への道作戦で人々を船に乗せるときのものです。
ちなみにホーチミン市や郊外地域にカトリック教会が多いのも共産主義支配による
迫害を恐れたカトリック信者が移住してきたためです。
首都を取り戻したとはいえ、国家が分断してしまったベトナム。
その後も統一国家樹立を目指した闘争が続き、同じ民族が南北に分かれて戦う
ベトナム戦争へと突入します。
その複雑な背景があり、現在のホーチミンとハノイではそれぞれ街や人の雰囲気が
違うことは旅行に行かれたことのある人は肌で感じたと思います。
興味はあってもまだベトナムへ来たことがない方は、ホーチミンとハノイを
周遊して違いを比べてみて下さい。