こんばんは。PHTのへおです。
昨日は首都開放日というお話をしましたが、この首都開放は意外と根深く
ベトナムが南北に分かれるきっかけにもなりました。
そこで、南北が別れるきっかけを紐解いていきたいと思います。
首都開放日から話を遡ること1945年。
この年は、日本にとっても大事な年ですが、ベトナムにとっても大事な年でした。
1945年の第二次世界大戦終結後、独立を宣言 したベトナムでは 再支配を狙う
フランスを支援するイギリス軍が進駐し再び戦火が上がります。
1946年になってベトナム民主共和国が名実ともに国家としての体制が整うと、
フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立が認められ
ましたが、 フランス軍はハノイに無血入城して駐留しました。
完全独立を目指すベトナムにはとても受け入れられるものではなかったそうです。
更にフランスは、プランテーションなど権益の多い南部を手放そうとせず、
南部にフランス傀儡政権コーチシナ共和国を成立させます。
そこでホー・チ・ミン主席はフランスに渡って独立交渉を続けましたが、
交渉は決裂。
ベトナムは、1946年6月に元日本軍将兵を教官としたクァンガイ陸軍中学を設立
して将校の育成を始めるなど独立戦争長期化に備えていきます。
1946年11月20日のハイフォン港での密輸船取締で銃撃事件が発生したのを発端に
軍事衝突へ発展し、12月19日からフランス軍がトンキン・デルタ地帯の各要衝や
ハノイのホー・チ・ミン官邸など重要施設の襲撃。
12月20日にホー・チ・ミン主席が対フランス全面抗戦を宣言し、 第一次インド
シナ戦争(1946年12月19日~1954年8月1日)が始まりました。
この戦争では1950年以降アメリカがフランスを支援して軍事介入します。
ベトナムが南北に分かれ、アメリカが南側を全面的に支援して戦ったベトナム戦争
(1955年11月~1975年4月30日、別名第二次インドシナ戦争)はここからが始まり
とも言えます。
一方の隣国では1949年10月に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が
成立しました。
翌年、中国とソ連がベトナム民主共和国を承認して武器援助を開始しており、
アメリカの軍事介入によって、東西冷戦の代理戦争へと発展しました。
長期化した戦争は、丘陵陣地を巡っての大激戦「ディエンビエンフーの戦い」
(1954年3月13日~5月7日)にベトナム側が勝利 し、7月21日の休戦協定(ジュ
ネーブ協定)締結と、インドシナ半島からのフランス全面撤退へとつながります。
この写真はディエンビエンフーの戦いで勝利したベトナム兵を撮影したものです。
ジュネーブ協定を受けて7年にも及ぶ血みどろの戦いが終結し、フランス軍が駐留
して支配していた首都ハノイをベトナム側に引き渡すことが決まりました。
しかし、これがベトナムの南北を分断させ、北部の人と南部の人の温度差も
生む結果になったそうです。
大事なターニングポイントの話はまた次回で。